ゆとりBの佐竹です。今回は「サトリ編」です
前回、釈迦は苦行にチャレンジしましたがやめてしまいました。
理由は、苦しい修行をいくらしても本当のサトリ(心の安らぎ)を得ることができなかったからです
そのとき、一緒に修行していた5人の仲間はやめた釈迦をみて、こいつは堕落したと思い去って行きました
そこで釈迦は場所を移し、新たな道を進むことにしました。
新たな場所につき、川で沐浴したあと、今までほとんど飯を食っていなかったが、村娘のスジャータから牛乳で煮たお粥をもらい食べてしまいました。
そして気力の回復を図って菩提樹と呼ばれる木の下で「今、サトリを得なければ生きてこの坐禅から立たない」と決意し、瞑想しました。
すると、釈迦の心を乱そうとマーラという魔神があらわれジャマしますが、丸一日の戦いの末、勝利し、
悟りを開きました。
※ちなみに乳製品のメーカーの「スジャータ」はここからきてます
釈迦は、このように、極端な修行の末に、
倒れるかか倒れないかのギリギリの精神状態で修行するよりも
必要最小限の栄養補給はして、食べ物に感謝して
心にある程度の余裕をもって修行するというハイブリットな修行の構造を発見しました。
人間の汚い心が嫌だ嫌だと言って、
それを苦しさ(苦行)で紛らわして、忘れ去ろうとしても何も変わらず
むしろ心の汚い部分が見えてきます
汚い心自体を受け入れ、その自分を知り、受け入れていった先に悟りがあるんだと思います。
一般的には悟りは人生で一回だけで、そこで人間が完成されるというような解釈が多いかもしれませんが
僕は最終目標ではなく、生活のなかに悟りはいっぱいあり、それを一つ一つ経験のなかでつかんでいくものだと思います。
例えば、好きなことをやっていて、うまくいく瞬間があって、「こうすればうまくいく」という方程式ができあがります
努力している時「キタ!これだ」みたいなのありますよね?それです、「1サトリ」です
それを経験として掴むことが悟りです。あくまで頭ではなく「経験として」という部分が仏教では重要です。
しかし、悟りは人生のなかに何回もあり、さらに掴んだと思ったら次のステップがあってどんどん深くなっていったり、忘れたりします
その状態をキープするのが一番難しいです。
釈迦は、その人生における悟りを全てその瞬間にゲットし、キープましたが
僕ら一般人はそうはいきません。一つ一つでいいと思います
うまくいった気持ちいい瞬間っていいですよね。
僕はそこを大切にしたいと思います