佐竹です。
仏教には「諸悪莫作 衆善奉行(ショアクマクサ シュゼンブギョウ)」という言葉があります。
一般的には、
「諸悪莫作」…もろもろの悪をなすことなかれ
「衆善奉行」…もろもろの善を行え
という意味になりますが、実際の意味は少し違います。
1回で2つ説明すると長くなるので、今回は「諸悪莫作」の説明をします。
ここで言う「諸悪」とは「もろもろの悪」のことなんですが、
ものごとの中の性質を「善性(善の性質)」「悪性(悪の性質)」「無記性(善でも悪でも無いもの)」
の3つに分けた時の「悪性(悪の性質)」のことを言いますが、
この3つの性質の定義は時代や人によって様々に変化します。ケースバイケースですよね。
国の為に命をかけて戦うことが善とされてた時代もあれば、戦争自体が悪とされている時代もあります。
豚を食べるのは悪とされている宗教もあれば、特に関係なく食べる人もいますよね。
善とか悪とか善でも悪でも無いもの基準は、時代や人で変わります。
と言うことは、3つの性質「善性(善の性質)」「悪性(悪の性質)」「無記性(善でも悪でも無いもの)」
は固定的、実体的なものではないと言えます。まずこれが前提になります。
その上で、「諸悪莫作」…もろもろの悪をなすことなかれ
の意味ですが、普通に考えれば
「悪いことをするな!!」といった意味だと思います。
しかし、そうではなく
「悪が作られないところ」と言うのが「諸悪莫作」本当の意味であり理想とする世界です。
例えば、泥棒が僕の家に入ってきて、僕が泥棒を殺しました。
この行為が悪とされる時代だったとして、
普通、僕が泥棒を殺さなければよかった、それがこの問題の解決だと思いますよね。
しかし、これでは1つの悪しか解決できません。
どうゆうことか。
この一連のストーリーには、
①「僕が泥棒を殺したと言う悪」
と、
②「泥棒が泥棒を殺したと言う悪」
の2つの悪が存在しています。(普通に人は①の悪しか見えませんが、真理(ものごとの本質)を知っている人は②まで見えます。)
この中の①しか解決できませんよね。
じゃあ②はどうゆう意味でしょうか。
泥棒が泥棒にならなければ(僕の家に侵入しなければ)、泥棒は死ななかったのです。
つまり泥棒が泥棒になったことで、泥棒が死んだのです。ここが②「泥棒が泥棒を殺したと言う悪」です。
この①と②の悪をどっちも解決する為には、僕が泥棒を殺さないだけでなく泥棒が泥棒を殺さない状況でないといけません。
その状況とは、泥棒が泥棒にならなければ(僕の家に侵入しなければ)よかったと言うことです。
泥棒が泥棒にならなければ(僕の家に侵入しなければ)、僕が泥棒を殺すこともないし、泥棒が泥棒を殺すこともなかった。
根本的な解決になりますよね。
これが、「悪が作られないところ」つまり「諸悪莫作」です。
じゃあこれを実践するってどうゆうことでしょうか。
みなさん自分のコミュニティーがありますよね。友達のコミュニティーだったり会社だったりです。
そこで何か問題があった時、まずは自分一人でも悪をしないようにしていきましょう。
ただ、これだけではさっきのように①しか解決できません。
でも、その悪をしないようにという考え方が友達なり会社だったら同僚なりに派生していってコミュニティー全体が悪はダメって空気になった時、根本的な解決になります。
ここに関しては、個人だけではできないことで、宗教のように集団で行うことの重要さでしょう。
会社で問題解決のために共通意識をもって仕事することって1人じゃ全然クリアできなかった問題が意外に簡単にクリアできたりしますよね。
自分を変えることはもちろん大事ですけど、残念ながら1人だけでは表面的な問題しか解決できないんだと思います。集団としての考え方が変わった時、根本的な問題が解決されるのではないでしょうか。
そして、コミュニティー全体が「悪が作られないところ」(悪いことができない場所)になった時、「諸悪莫作」が完成します。
次回は、「衆善奉行」…もろもろの善を行え
です。
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〈今月の真美〉 |