去年は、仏教の教えは、普段僕らが普通に生活している中に起こりうる迷いと答えに、リンクできること。
それと僕が生活していて感じたことを仏教フィルターを通して説明しました。
気難しい話ではないんだということを伝えたかったんです。
今年は、ちょっとまじめな感じで、道元禅師が書いた正法眼蔵の流れに沿って、それを僕なりの文章で書いて生きたいと思ってます。
人が迷うときはいつも原因があります。
それは考え方が原因です。
普通、薪は燃えると灰になりますよね。
僕らは目の前に現れているものは、いつか無くなると思い込んでいます。
しかし、逆に考えてみてください。
灰は薪になりません。
灰が薪にならないということは、薪も灰にはなりません。
薪は薪として存在し、灰は灰として存在しています。
薪は薪で前後があって、灰は灰で前後ががあるのです。
ただそれだけです。薪と灰の間は断ち切れています。
それを僕らに当てはめると
生が死になるわけではないということです。
生があります。一方で死があります。それだけ
生きているときは一生懸命生を全うし
死んでいるときは一生懸命死を全うする
それが仏教の過去現在未来の考え方です。
仏教は過去から未来への一方通行の考え方をしません。
過去は過去、現在は現在、未来は未来。
その中でも僕らは現在でしか生きられません。
例えば
大きなプロジェクトを任せたいと上司に言われます。
成功したら評価は大きく上がります。
でも万が一失敗したらこの会社にはいられないでしょう。
普通そう考えて悩みます。
でも、成功したからって評価が上がるかどうかはわからないし
失敗したからって会社にいられないかもわかりません
余計な未来を想像するから悩むんです。
今は今でしかありません。未来とは断ち切れています。
薪と灰の間が断ち切れているのと同じですね。
この考え方ができるようになると、未来の不安に翻弄されずに、自分はそのプロジェクトがしたいのかどうか、今の自分と相談できます。
これが今を生きるということです。
結果は自然についてきます。
今の自分と生きましょう