Sep 18, 2017

衆善奉行 by Satake

佐竹です。

2回前のgeekの続きです。

2回前の記事はこちら↓
http://www.fun-diary.com/2017/07/5-by-satake.html?m=1

「諸悪莫作 衆善奉行(ショアクマクサ シュゼンブギョウ)」の話です。

一般的な意味は、

1「諸悪莫作」…もろもろの悪をなすことなかれ

2「衆善奉行」…もろもろの善を行え

という意味です。実際の意味は少し違います。

前回は、1「諸悪莫作」について説明したので、今回は、2「衆善奉行」についてです。

基本的には、前回の解釈と一緒で、「悪」を「善」に置き換えて、「莫作」を「奉行」に置き換えて考えれば分かりやすいと思います。

「もろもろの善を行え」という意味ではなく、

「もろもろの善が自然に行われるところ」という意味です。

仏教はの考え方は、絶対的な神という存在があって、神の命令によって人が動いているわけではありません。

ブッダ(仏陀、仏、悟った人)という存在は、いい師匠のようなものであって、僕たちにアドバイスをしてくれているだけです。

仏教を開いた釈迦もブッダの一人であり、元々は同じ人間です。

なので、善を行えというような命令によって僕らが動かされるようではいけません。

僕らが、自然(無意識)に善を行なっている状況でなければいけないのです。

ただ、1「諸悪莫作」の回でも書いたように、自分が善だとして思ってしたことも、他人にとって善であるとは限りませんよね。

余計なお世話というやつです。

じゃあ、他人の立場に立って考えればいいかというと、そうではありません。

さっき書いたように善悪の判断というものは、自分と他人でも違うし、時代によっても変わります。

ということは、人間が判断できないことなのです。

だから、善とか悪とかの判断をやめなさいということです。

いちいち判断した上での実践というものは、真の実践にはならないということです。

悪いことをしようとしても、自然にできなくなる。

善をしようと意気込むことなく、自然に善をしてしまう。

そうゆう人間になることが、仏道修行なんです。



次に、
渡司くんの先月のgeekに答えます。
http://www.fun-diary.com/2017/08/by-watashi.html?m=1

「諸悪莫作 衆善奉行」

に関連した禅問答があります。

これを渡司くんにプレゼントしようと思います。


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居易いわく
「何如ならんか是れ仏法の大意」

道林いわく
「諸悪莫作、衆善奉行」

居易いわく
「もし恁麼にてあらんは、三歳の孩児も道得ならん」

道林いわく
「三歳孩児縦道得、八十老翁行不得なり」

恁麼いふに、居易すなはち拝謝してさる。

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現代語にすると、

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居易いわく
「いかなるかこれ仏法の大意」

道林いわく
「諸悪莫作、衆善奉行」

居易いわく
「そんなことなら、三歳の童子だって言えますよ」

道林いわく
「たとえ三歳の童子に言えるにしても、八十の老翁も行ずることはできぬであろう」

道林がこのように言ったとき、居易は一礼をして去って行った。

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勉強をして知識を得たり、いろんな方向から物事を見て判断することはとても重要です。

でも、それと同じくらい、何も知らない時(初心)は重要です。

判断する基準がないから真実が見えているんです。

三歳の心に戻って見てみれば、目の前をその場において感受できるんじゃないでしょうか。

【今月の真美】